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Note No.6

小説置場

君を幸ふ

 横たわったお前の傍に座った。手を取り、そっと握った。握り返してはこなかったけれど、うっすら目を開く。血の気が失せて白くなった顔の中、潤んだ瞳は黒く光り、場違いにあざやかだ。
「……泣いてる……?」
 小さくか細い声がよろよろと紡がれる。いつもなら思いっきり否定する所だったけどそんなことは出来なかった。
「泣いてるよ! 悪いか!」
 ぼろぼろ涙をこぼしながら叫ぶ。お前は笑った。やわやわと、この場所には不釣合いなほどおだやかに笑った。
「……怪我はない……?」
「……ない」
 かすり傷は無数にあるし、いくつかざっくりいったのもあるけど致命傷ではなかった。襲ってきた連中は返り討ちにしたから、その辺にごろごろ転がっている。
「……ごめんな」
 しぼり出すように謝ると、お前は不思議そうな顔をする。俺は早口でまくしたてた。
「いつもお前の背中は俺が守ってたのに、いくら人数が多くて別れ別れにさせて個人攻撃の作戦だったとしても」
 離れるんじゃなかった、という言葉をお前は目で制した。
「仕方ないよ。これは僕の力量の問題だったんだ」
 これ、と言って腹から突き出した槍を示す。後ろから刺されて貫通したらしかった。引き抜けば出血がひどいだろうし、動かしても傷口が広がる。とりあえず施した止血はほとんど意味をなさず、じんわりと血をにじませ続ける。
「……現に、君はちゃんと戻って来た」
 僕の前に、酷い怪我もせずに。そう言って笑う顔は無理をしているように見えない。いっそ楽しげにすら見えた。致命傷を追っていることがわからないはずがないのに。一歩ずつ、死の淵へ近づいているのだと、気づいていないはずがないのに。それが痛いほどわかっている俺は、後から後から涙が押し寄せて視界は滲んでしまうから、何度も拭う。
「ありがとう」
 はっきりとお前が言った。強い目で俺を見て、しっかりと言った。
「泣いてくれて、ありがとう」
 ふにゃり、と表情を崩す。目を細め、口元をゆるめ、眉を下げている。俺が言葉を探そうとしている間に、お前はゆっくりと言葉をつなぐ。
「君が泣いてくれるなら、僕はそれだけで充分だ。すばらしい人生ではなかったね。嬉しいことや楽しいことはそう多くなかった。苦しんで辛くて、泣きたいことばかりだった」
 弱々しくも静かに、落ち着いた言葉。お前は二度、三度あえいでから再び言葉を吐く。
「人を信じたくても信じられず、信じられないことが苦しかった。疑い深い自分に嫌気がさして、何もかもが嫌になったよ」
 俺はどんな答えを返せばいいのかわからない。悲しいような気もしたし、腹立たしい気もした。
「ごめん。僕はたぶん、何一つ信じていなかった」
 僕のことも、君のことも。
 続いた言葉が耳に届いて、言いたいことがいくつも頭を巡る。今までずっと一緒にいたのに、ずっと隣にいたのに、その日々全てが嘘だって言うのか。俺は微塵も信頼されていなかったのか。頭に血が上りかけたが、強い力が俺の手を握った。何かを込めるように、伝えるように、握りしめる。
「それでも僕は幸せだった」
 君が泣いてくれたから。君が僕の死を悲しんでくれるなら、それだけで幸せなんだ――。
 つぶやく言葉は弱々しいが、不思議な力に満ちている。真っ白い顔は、影に覆われ始めているのに、神々しささえ漂っていた。握りしめていた手の力が弱まる。俺は両手でその手を取った。頬を流れた雫が落ちた。お前は目を閉じてゆっくりとつぶやく。唇はほほえんでいた。
「僕は先にいく。君のために泣けないことが残念だよ」
 眠るような顔に、唐突に理解した。こんな風に安らかに、何一つ心配事などないように。俺がお前に出来る最期のことは、きっとそんな些細なことでしかない。それなら、軽口で答えよう。
「……俺の方が先だったら泣いただろう」
「……泣き暮らしたよ」
 冗談の響きに思わず笑った。まるでいつものようだった。何でもない話をして、軽口でやりあって、そうして笑いあっていた毎日みたいだ。きっとお前もそう思ったんだろう。瞼がゆるゆると引き上げられ、深い漆黒が俺をとらえた。
「ほんとうに、ぼくはしあわせだったんだ」
 吐息のような声は、心からのものだった。だから俺はゆっくりと笑う。お前が幸せだったのだと心から言えるなら、それだけでいい。それだけはきっと、何もかもを信じられなかったお前の、たった一つの真実だ。