Note No.6

小説置場

レテの深海に沈没

 何一つ、覚えてなどいないのですが。それでもこれだけは、間違いないように思うのです。


 あなたが用意してくれたコーヒーを飲んでいたら、「ブラックも飲めるんだね」と言った。もしかして、と思って尋ねる。
「以前の私はブラックではないんでしょうか」
「砂糖とミルクを冗談かというレベルで入れてたよ」
 その言葉に、しばし考える。ここはやっぱり私も砂糖とミルクを入れた方がいいんだろうか。だってそうした方が、少しでも記憶の中のわたしに近づける。
「ああ、いいんだ。君の好みはそのままで」
 ブラックが飲めるってこともわかったしね、と穏やかに言うけれどきっと胸中は穏やかではないだろうから、「すみません」と謝る。
「なるべく早く記憶が戻るように善処します」
 ある朝目覚めると、わたしの中から記憶という記憶すべてが抜け落ちていた。自分の名前や住所はもちろん、そもそもわたしが何者であるかさえ。幸いだったのは、わたしを知る人間が一緒に住んでいたことだけれど。
 あなたにとっては青天の霹靂だったろう。だって、一緒に住んでいた恋人がいきなり記憶をなくしていたのだから。
「迷惑ばかりかけて申し訳ありません」
 基本的な常識や生活能力は残っていたけれど、自分にまつわることは何一つ覚えていなかった。この状態では、わたしなんてあなたにとってはただの他人でしかないのに、以前のようにここへ住まわせてくれているのだ。
「いいんだ。大変なのは君の方なんだから」
 だって、とあなたは言う。目が覚めたら、いきなり知らない男と同居することになったんだから。そこまで言った所で、あなたはそういえば、とつぶやく。
「だけど君は、あまり混乱はしていなかったよね」
 記憶の無い状況で知らない男が出てきたらそれこそパニックになってもおかしくはなかったのに、というあなたの言葉に、ゆっくりと答えた。
「だって、わたし基本的なことは覚えていたじゃないですか」
 当たり前に生活していくために必要な一般常識だとか、基本的な知識だとか。そういうものは覚えていたから、なんとか生活はしていける。だから、だから当然じゃないですか。
「あなたが何より大事な人だなんてこと、記憶がなくてもわかるに決まってるじゃないですか」
 だってそれは、生きていくために必要な、当たり前のことでしかないんだから。

 

Title:「夜風にまたがるニルバーナ」