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Note No.6

小説置場

スタートラインに立つ前に

 自分の心臓の音が聞こえる。胸の高鳴りなんて素敵なものじゃないことは、私が一番よくわかっている。手のひらには汗もかいてるし、何だか嫌な感じに胸がざわざわしているし、お腹の奥底がじりじりと焼かれるような焦燥感も一緒になっている。どきどき、と頭に響くこの鼓動は要するに、単なる緊張の現れだ。
 落ち着け、と何度も自分に言い聞かせたけどあまり意味はなかった。落ち着けって念じたくらいで落ち着けるなら、そもそもこんなに緊張しているわけがない。いくら頑張ったって、どうあがいてみたって、この心はぐらぐらと不安定なままだろう。
 仕方ないと言えるほどに私は豪胆ではないし、今すぐに逃げ出したいと本気で思うくらいにはびびりだし、それを選べない程度には小心者だという自覚はある。だから、結局は逃げ出すこともしないで、どきどきしながら、叫び出したくなるような衝動を抱えてどうにかやり過ごそうとするんだろう。他人事みたいな言いぐさではあるけど、概ね間違ってはいないと思う。まあ、結果に関しては如何とも言い難い点は多々あるけれど。
(逃げたりは、しないんだよね)
 意識的に深い呼吸をしながら、ぽつりと思ってみる。逃げたいとは思うけれど、逃げ出すためには大きな決意と労力が必要だ。私にそこまでのバイタリティはないから、何だかんだと言いながら逃げたりはしないことは確信している。それは結局私の憶病さの証拠なのだから、別に褒められることではない。それはわかっているけど、せめてそれくらい主張しても罰は当たらないと思いたかった。逃げ出すことも出来ない、行動力のない私だなんてことはよく知っているけど、なし崩し的に立ち向かうことだけは、その事実だけは、ほんの少しだけ認めてやってもいいのかもしれない。
 踏ん切りはつかない。覚悟なんて決められない。どうしようもないなぁと思うし、実際その通りだと思う。だって何かが始まったわけじゃないし、何一つ成し遂げたわけでもない。そもそも何かを始める、という地点へ至るまでに、多大な努力が必要だと言うのだから本当に私はどうしようもない。しかも、いざ始まってしまえばどうにかなる、という手合いでもない所がまた悩ましい。「出た所勝負で」「当たって砕けろ」なんて言った所で、結局は尻込みし続けてずるずると引きずり出されてしまうだけなのだ。何かしらの決意の結果ではない所が、やはりどうしようもないな、と思う。
 自分でも冷静な部分はちゃんとあって、「別に死ぬわけじゃないだろう」なんてもっともなことを言っているが、もはやそういう問題ではなかった。確かに命を奪われるわけではないし、私が失敗したら誰かが殺されるだとか、そういう重いものを背負っているわけでもない。(まあ、完全に何の責任もないという訳ではないが、少なくとも他者の命を預かるような状況でないことだけは確かだ)それでもこんな風に憂鬱な気分になってしまうわけで、これはもう私の習性と言ってもいいのかもしれない、なんてことを本気で思ってしまう。
 だって私は、結局の所恐れているのだ。人前に引きずり出されて、自分自身を見つめられる場面に立たなければならないことを、心底恐れている。それはつまり、私という人間を直視される事実に耐えられないからだ。私がどんな行動をして、どんな言葉を吐き出し、どんな態度を取るのか、つぶさに観察されることが、どうしようもなく怖い。何故なのか、なんてそんなことは簡単だった。だってそんな風に見つめられたら、私がどうしようもない人間だってことをすぐに見破られてしまうでしょう?
 確信なんて一つもないのに。私を断罪するような場面ではないことくらい、よくわかっているのに。それなのに、全てのものが私を苛む理由に思えてしまうなんて、ほとんど私の習性と言って差し支えないと思う。怖いと思った時、ただ単純に理解してしまったのだ。当たり前の事実のように、太陽が昇ればやがて沈むのと同じような自然さで、すんなりと思ってしまったのだ。
 この恐怖は、心の底から怯えなくてはならないのは、私がどんなに役立たずで不出来な人間なのかということが、誰の目にも明らかになってしまう恐怖だと。
 役立たずだと思い知らされるのは嫌だった。やさしくしてくれた人たちを失望させるのが怖かった。何の価値もないんだと、はっきりと思わされるのが悲しかった。だから私はこんな風に、暴れ狂う心臓の音を聞きながら、じりじりとした心を抱えている。執行を待つ死刑囚のような心持ちで、その時が訪れるのを待っている。逃げ出すことも出来ない憶病さと、どうにか立ち向かおうとする滑稽ないじらしさで。諦めもつかなければ覚悟も出来ないけれど、それでもいつか始まってしまうことだけはわかっている。だからもうそれなら、こうするしかないのだ。決意なんて大層なものではなく、やがて訪れる瞬間を知っている私は、ただ歩いていくしかない。別に褒められるようなことではないし、何一つ誇れることではないだろう。わかっているけれど、それでも思いたいのは確かだった。ずるずると、引きずり出されるようにして、それでもスタートラインに立とうとすることだけは、褒めてやってもいいのかもしれない。