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Note No.6

小説置場

Jewelry pot

短編・SS

 この思いを、一体何と名づけよう。

 大きく一つ深呼吸をしたのは、落ち着きたいとかとりあえず周りを見渡すべきだとか、そういう理由じゃなかった。ほとんど習慣みたいに、ただ息を吸って吐いただけだ。日常的に繰り返してきた動作を、この瞬間も行っているだけでしかない。だってこれはただの呼吸だった。何だか心がふわふわして、少しばかり気が大きくなってしまって、息を吸って吐くだけの動作が、釣られるように大きくなってしまっただけだ。
 喜びではない。溢れるような幸福でもなければ、降り注ぐ光のようなあたたかみでもなかった。胸の奥がつぶれるような苦しみと、ぎゅっと痛む心さえも伴ったそれは、悲しみと呼ぶ方が相応しいような気がする。
 だってこれは、心を満たす充足感や痺れるほどの幸いだとか、そういうものとは程遠い。思い出したら泣きたくなるし、笑顔になんてなれやしない。きっと私は笑えるし、何でもない顔だって出来るのだけれど、それでも奥底にあるものは、透き通った悲しみであるような気がしている。
(かなしい)
 心でそっと紡いだ言葉は、ゆっくりと落ちて波紋を広げていく。たぶん私はかなしいのだと思う。それは確かに間違っていないのだけれど、それでもどうしてなのか、素直にうなずくことが出来なかった。だって、と私は思う。だって私が今持っているものは確かにかなしみだけれど、それだけじゃないでしょう? それだけで心がふさがれているわけじゃないでしょう?
 自分の心を見つめるのは昔から苦手だった。自分の悲しみや苦しみを見つけるのはやたらと上手かったけれど、それは恐らく、一部分を拡大しているだけなのだ。悲しかった。苦しかった。辛かった。それは何一つ嘘じゃなくて、どこまでも本当だった。だから偽物ではないのだけれど、それが全てではなかったのだ。喜びや幸せを無視することだけは上手かったから、そんなものは無かったような気がしていたけれど。あまりにも悲しくて、苦しみが深くて、辛い時間が多すぎて、すぐに忘れてしまっていたけれど。よく見えるものだけに注意を奪われて、陰に隠れたものたちに目を向けることが、私はきっと苦手だった。
 だから恐らく、今私の心に渦巻いているものたちだって、全てが一つで満たされているわけではないのだ。かなしいけれど、かなしみだけで何もかもが埋められているわけじゃない。
 私は私の心へじっと目を凝らしてみる。すぐに何もかもを見通せるわけもなくて、全体像が見えるなんてこともないのだけれど、それでもぼんやりと見えるものだってある。たとえば、かなしい心の奥の方、確かな悲しみのその向こうで。かなしいだけだとうなずくことの出来ない何かが、遠くにあるような気がしている。それはたとえば。
(きらきらとひかるような)
 きらきらとしたひかり。目もくらむようなまぶしさもなければ、全てを包み込むようなやわらかさもない。ただ、遠くの方でかすかに、小さな光の欠片が踊っている。何よりも澄み切ったひかりが、きらきらと舞う。
 喜びではないのに。幸福でもなければ、満たされた心でもないのに。あなたを思えば泣きたくなって、上手く笑えなくなってしまうのに。それなのに、どうして、きらきらと光っているような気がして仕方ないんだろう。どうして、苦しくて、悲しくなって、泣きたくなるのに、この心の奥には、あんな風に綺麗なものが隠れているような気がするんだろう。
 この思いに一体どんな名前をつけたらいいのか、私にはわからないでいる。幸福ではない。悲しくて泣き出したい。だけれど、同じくらいに美しいのだと知っている。
 泣きたいのに、誇らしい。悲しいのに、胸を張っていたい。どんな意味もきっとないのだろうし、何か特別なことではないのかもしれない。それでもたぶん、こんなにも悲しくて美しいのは、それが誰かを思う心だからだ。自分のことだけで精一杯で、今日を生き延びることだけで心を砕いていた。誰かが入る余地なんてなくて、自分のことしか見えていなかった。だってそうじゃなきゃ生きていられなかったからだ。自分のことだけで精一杯だったから、誰かなんて気にしている余裕がなかった。だけれど、今の私は、あなたのことを思うことが出来ている。
 幸せなことばかりじゃない。悲しくて泣きたいし、不安で心は震えている。だけど、こんな風に人を思えることが嬉しい。幸せだけの心でいられたらいいと思うし、溢れるような喜びがほしい。それは難しくて、やっぱり怖いことはたくさんある。私の心は弱いままで、前だけを向いていられるわけじゃない。だから、悲しいことはたくさんあって溢れてしまいそうだ。それでも、と私は言える。それでも、あなたのことを思っていることだけは、本当なんだ。
 きっと、特別なことではないね。普通の人ならば難なく出来ることなのかもしれない。だけど、今までずっと自分の心に固執するしかなくて、どうにか自分を立て直しながら生きて来た私からすれば、私ではない誰かのことを思えるなんて、奇跡のような気がするのです。だから、たぶん、こんな風にきらきらと光るものを感じている。私の中の遠い場所で、あなたを思えることの喜びを、悲しみの奥に隠しているのだと知っているから。