読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Note No.6

小説置場

Hymns

 行きたい所があるのだと言う汝緒さんは、暗がりから決して動こうとしない。境内にある大木の傍に座り込んだままで、恐らくへらへらと笑っているのだろう。表情は見えないけれど、間違ってはいない。
「……汝緒さん」
「どうしたの、悠一くん」
 朗らかな声だった。能天気な、まるで何も考えていないような声をしている。だけれどその実、この人はとても聡明だった。一筋縄ではいかないほど、常にあれこれと頭を働かせている。だからきっと、俺の苛立ちも全て見抜いている。
「汝緒さん」
 険しさをにじませても、「あれ、何か不機嫌だね」と楽しそうに答えるだけだ。驚くこともなく、ずっと前から俺の反応なんて予想していたような雰囲気が漂っている。もしかしたら、と思う。もしかしたら汝緒さんは、俺が苛立つのをわかっていてここを動かないのかもしれなかった。
「行きたい所があるなら、立ってください」
 ここに座ったままでは何も始まらない。ただいつものように、夜が明けるのを待つだけなのだ。行きたい所があるというならば、立ち上がって歩き出さなくてはならない。そんなこと、わからないはずがないのに。わからない人ではないのに。
「駄目だねぇ、悠一くんは」
 楽しげな雰囲気そのままに、汝緒さんはつぶやく。やたらと明るい声をしていて、満面の笑みを浮かべているのだろうな、と思った。外灯もない境内で、月の光も雲に隠れる今日は、その表情が見えない。ただ薄らと、申し訳程度に入る道路からの明かりで、どうにか物の形はわかるけれどそれくらいだ。
「そんなんじゃ僕は動かないよ」
 暗闇の向こうで、恐らく汝緒さんは笑っている。嬉しそうににこにこと、とっておきのゲームでも見つけたみたいな顔をして、その実一片たりとも心から楽しいなどと思わずに。
「行きたい所があるからって、立ち上がりたいとは限らないじゃないか。ましてや、歩き出したいわけでもないのに」
 僕はただここでじっとしていたいだけなんだよ、と汝緒さんは言う。やたらと明瞭な発音で、何か演劇の台詞でも口にしているような雰囲気で。悠一くん、いいかい、僕はね、と声を張り上げる。
「僕はただここで、暗闇に溶けてしまいたいというのに!」
 けらけらと笑い声が弾ける。境内の中は、時折吹いてくる風に揺れる葉の音しかしないから、思いの外よく響く。大きな笑い声はしかし、やけに乾いた響きしか持っていない。それはそうだろう。暗闇に溶けてしまいたいだなんてそんなこと、望んじゃいないんだ、この人は。
「……ただ座り込んでたって、店はあっちからやってきませんよ」
 ただここで暗闇に座り込んでいるだけで、行きたい場所がやって来るというなら、いつまで経ってもここにいればいい。根が生えるまでずっとここに座って、暗闇に同化していればいいと思う。だけど、そんなこと有りえない。無駄な時間を浪費するくらいなら、自分から動き出せばいい。
「ああ、本当に悠一くんは真っ当だなぁ!」
 芝居がかった動作で汝緒さんが叫んだ。顔は見えないけれど、この人はきっと笑っている。いつだって汝緒さんは、心にもない笑顔を浮かべている。楽しくなんてないのに、喜びなんて一つもないのに、汝緒さんの笑顔は崩れない。
「どうしてこの世界はこんなに光で満ちているんだろうね。どうしてこんなにも、暗闇を駆逐しようとするんだろう。光ばかりを追い求めて一体何になるっていうんだ。何もかもを照らし出して、そんなに隅々まで暴き立てなければ気が済まないのかな」
 軽い調子で吐き出された言葉だったけれど、恐らく切実な響きを持っている。汝緒さんは暗闇の中でしか生きられない。光の中に引きずり出されることは、つまり死ぬことと同じなのだ。この人は、太陽の光で焼き尽くされてしまうから。
「ねえ、僕の行きたい場所はみんな光に閉ざされているんだよ。きっと僕の目は潰れてしまう。僕は生きていけない。それでも僕に歩き出せ、だなんて言うんだ。悠一くんには簡単だろうけれどね。ねえ、君は太陽の子どもだもの」
 おだやかな声をしていた。諭すような響きさえ持っていたけれど、俺は恐らくその意味を正しく理解している。太陽の下を難なく歩ける俺に対して、当たり前すぎて何の意味も見出せない俺に対して、それは汝緒さんからの紛れもない呪詛であり、非難の言葉だった。
「……それなら、俺が代わりに行きますよ」
 汝緒さんにとっては死にも等しくても、俺にとっては何の障害もないのは本当だ。汝緒さんだって知っている。自分が暗闇にしがみつくしかないことも、求めているものがどこにあるのかも。
「ふうん、優しいんだねぇ、悠一くんは」
 顔は見えないけれど、声にわずかな皮肉が混じったのがわかる。確かにわざわざこんなことをしてやる義理はきっとないのだろう。見捨ててしまえばよかった。何も知らないふりをすれば、よかった。
「やっぱり君は、太陽の子どもだから」
 汝緒さんの表情は見えない。どんな顔をしているのか、ここからではまるでわからない。かろうじてわかるのは輪郭だけで、そこに浮かんだ感情を推し量ることは難しい。だからなんだろう。
 ぽつりと落とされた言葉は、微笑を含んでいなかった。一瞬だけ無防備に吐き出されたのが、紛れもない本心なのだと理解している。だからきっと俺は。
 全てを覆う暗闇の中でしか、自分自身をさらけ出せないこの人を知ってしまったから。暗闇に安堵しながら、それでも隠しようもないほどの太陽への憧憬を知ってしまった日から、俺はきっとこの人の願いを叶えてやりたい。