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Note No.6

小説置場

神の子羊

「神々の詩」

 希望に満ちて、その子どもは生まれるはずだった。産声の上がる瞬間を誰もが待ち望んでいた。国王に嫁いだ東の王妃――ヴィアレッタ・オイアソート・デル・ウェリファーナ――の一族である、ヴィアレッタ公爵は娘の出産を誰より心待ちにしていた。
 北の王妃がつい先ごろ産んだ赤ん坊が男児であったことを知った時は、眩暈がした。しかし、今日娘が産み落とすであろう子どもが男児であれば問題はない。継承権が第二位であれば、王位を争うには充分すぎるだろう。そうすれば、国における己の影響力も増すというもの。この日のために、あらゆるまじないを施し、司の宮上層部にも働きかけた。無事に男児を出産してさえくれればそれでいい。他には何も望まない。健康な男児、それが今ヴィアレッタ公爵の心からの願いだった。
 数十時間の苦しみの後、娘であるウェリファーナ王妃は無事役目を果たし終える。父親が望んだ通り、丸々と太った健康な男児を産み落としたのだ。勢いよく泣き声を上げ、存在を誇示するように力強い。このまますくすくと育つであろうことが予想されるほど、よく通る声だった。恐らく希望に満ちて、この子どもは歓迎されるはずだった。多くの祝福を身に受けて、望むものは何でも与えられるはずだった。無垢な瞳に世界を映し、まばゆいばかりの光の世界へ足を踏み入れるはずだった。
 ヴィアレッタ公爵は声が聞こえた瞬間、猛然と部屋へ突進する。制止の声を振り払い寝室へ飛び込めば、性別がどちらにせよ産婆たちが声をかけてくるのが常である。しかし、その時部屋は静まり返っていた。生まれたばかりの赤ん坊の泣き声だけがこだましている。ヴィアレッタ公爵は勢い込んで性別を尋ねようとしたが、すぐに部屋の異様さを察知して口をつぐむ。健康そうな赤ん坊だと思ったが、何か欠陥でも抱えていたのか。手足が欠損しているのか、外見にどこか重大な誤りでもあったのか――。そんな子どもをあの国王が抱くはずもなく、ヴィアレッタ公爵の背中に冷や汗が走る。それでは男児であっても意味などないではないか! しかし、近づいて事実を知った時、それの方がどれだけよかったろうか、と公爵は考えることになる。
 赤ん坊には重大な欠陥など見当たらなかった。ふくふくとした手足を持ち、青みがかった澄んだ目をしている。公爵の願い通りの、健康な男児そのものが泣いている。それなのに、部屋には張り詰めるような静寂で支配されている。男児は健康で、五体満足の子どもだ。真っ赤な顔をして、しわくちゃに顔を歪めて、声の限りに泣いている、健やかな子ども。だけれどたった一つだけ、違っている。
 血のように赤く、鋭利な刃物で刻みつけられたような、奇妙な文様。狂った神が孕んで生んだという、神の子供の紋章が、赤ん坊には刻み込まれていた。
 あらゆる希望が打ち砕かれ、薔薇色だった世界が崩れ落ちていく気がした。こんなことがあってたまるか! 健康な男児は望んだが、これはそれ以前の問題ではないか! こんな――『ラーレイアの子供』などが生まれてくるだなんて、なんという失態。何ておぞましい!
 しかし、ヴィアレッタ公爵はすぐに理性を取り戻す。まずこの部屋にいる産婆たちは古くから仕えている者たちだ。口止めはなんとでもなるし、不安なら始末してしまえばいいだろう。今重要なのはそんなことではない。今必要なのは健康な男の赤ん坊だ。
 公爵はすぐに指示を出した。産婆たちにはその子供を今すぐ隠すように命じ、外で待つ腹心に健康な男児を調達してくるよう指示した。『ラーレイアの子供』であることは明かさず、重大な欠陥が見つかったとだけ述べれば意図をすぐに察して動く。そんなに手ごろな赤ん坊が転がっているとは思わないが、最悪国王の目だけごまかせればいい。国王は大体において生まれたばかりの子どもなどに興味はないから、数日後に披露すればいいのだ。その時までに適当な、代役を務める赤ん坊を調達できればいい。それからゆっくりと、あの子供の代わりを選べばいい。
 目まぐるしく頭を動かしていた公爵であるが、一つ誤算があった。動揺のせいかもしれなかったし、読みきることが出来なかったのかもしれない。相手はこの国を統べる人物であり、気まぐれな性格と、老獪な立ち回りで名高い人物なのだ。そして、どの王妃よりも年若く美しい娘への寵愛が深かったことも理由の一つなのだろう。
「ウェリファーナ。子が生まれたと聞いたぞ。具合はどうだ」
 その声を、絶望の使者として公爵は聞いた。慌てて部屋を出たヴィアレッタ公爵の目は、ゆっくりと歩いてくる国王の姿を捕らえる。
 従者も連れずに(後ろから慌てて追いかける者の声が聞こえる)、単独で王妃の元へ出向いたのは、王妃の体を思ってのことというより、単にしばらく顔を見なかったからということと、ちょっとした好奇心からだということは想像に難くない。出産直後の人間を訪ねるなど、体調のことを考えれば慎みそうなものであるが、そんな理屈は通じない。生まれた子どもはどんなものかと、王妃の顔を見るためだけに赴いたのだろう。思い立ったことは我を通さねば気が済まぬ人間だからこそ。
「国王様、ようこそおいでくださいました。しかし、娘は出産直後ゆえにまだ穢れが落としきれておりませぬ……」
 だから入室は控えて、後日にしてほしい、と暗に伝えてみる。無駄なことと知りながら、あがかかずにはいられなかった。しかし案の定、国王はそんなことを意に介さない。
「そんなことを気にする私ではないぞ。妻に労いの言葉をかけたいという私の気持ちが不服か」
 否、と答えられるわけがない。もはや、後ろの扉を明け渡すしかない。苦渋に満ちた顔を見られないように深く頭を垂れて、ヴィアレッタ公爵は扉を開く。ぎぎ、とわずかに軋んだ音をたてる扉に手をかけて、国王を案内する。
 希望に満ちて生まれるはずだったその子どもが連れてきた、絶望の音を聞きながら。