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Note No.6

小説置場

願いの破片

「神々の詩」

 高校時代の友人が、大学へ行かずに就職すると言い出した時は驚いた。ごく一般的な公立校だったから、生徒の8割は大学進学、2割は専門学校へ、というような学校だったのだから。だけれど、働きながら子どもを育てると言い出した時が、人生で最大に驚いた。
 駅から徒歩二十分弱の所にある友人の家へ行く時は、手土産としてお菓子と食事を持っていくのが習慣になっていた。私たち大学進学組が四年間を適当に謳歌して自在にお金を使っていた頃、友人はひたすら子どもを育てていた。しかし気晴らしも大事だろうと誘ったけれど、いつも断られる。必死で子どもを育てているのに遊びほうけている私たちが嫌になったのだろうかと思っていたけれど、それは違った。よく考えたら、そんなことを思う人間ですらなかった。
「お金がない」。ただそれだけの理由でしかなかったのを知ったのは、突っ込んで理由を尋ねた時だった。遊びに行くとなれば必然的に都内だし、食事をすればお金もかかる。カラオケに行こうが居酒屋に行こうが、どう考えてもお金がかかる。友人の経済状態でいったらそんな出費は無理なのだと、あっさりと答えてくれた。もう少し早く突っ込んでおけば、余計な詮索しなくて済んだのに。
 しかし、理由がわかってしまえばこっちのものだ。あっちから行けないならこっちから行けばいい。お金の貸しを作りたがらない友人に、一食分浮かせられるというオマケもついていることだし。そういうわけで、友人の家に行く時は食事を持っていくのが習慣になっている。
「元気だった?」
 尋ねると、不機嫌にも見える顔でうなずく。私の体調も聞いてくるから、にっこりと笑いながら「元気だよー」と答えると、わかりにくく笑った。お土産のお弁当を渡しつつリビングへ上がると、部屋中に紙粘土やら色とりどりの折り紙で作られたオブジェやら、図工で描いたらしい絵が置かれている。
「……ああ、クレディムくんはもう小学生になったんだっけ」
 しみじみと言ってしまうのは仕方がない。大学時代に入り浸っていたおかげで、私たちは無駄におしめの換え方とか離乳食のあげ方がうまくなってしまったのだ。
「そう。今年の春にあがったばっかり」
「あーもうそんな年なんだー」
 くすり、と高校時代からの友人であるイヴが笑った。「あの子は見守ってくれる人がこんなにいて幸せね」と、静かな声で言うからうなずいた。
「私たちが18歳の時に生まれた子が、もう小学生だもんねぇ。そりゃ年取るわ」
「そんなこと言って。みんなまだまだ若いでしょ」
 まあねー、とうなずきつつ出されたお茶を飲んだ。イヴはおだやかな表情で、同じようにお茶を飲む。昔から、大人びた友人だった。どこか遠い場所を見ているようなタイプだと思ったけど、人付き合いが出来ないわけではない。常識もあればいざという時はしっかり自己主張も出来る。単に大人しいだけかと思っていると痛い目を見る人間だった。
 仲の良い友人だったけれど、あまり踏み込んだ話をしたことはなかった。だけれど、イヴの両親が外国の人間であったこと(これは名前と外見から予想はついていたけど)、両親が事故で死んでしまってからは双子の姉と暮らしていることなどは、ひっそりと話してくれた。でも、そんなことくらいで詳しい話は知らなかったのだ。
「……ほんと、あんたがいきなり『働いて子どもを育てる』って言い出した時は驚いたなー」
 進路の話をしている時も何も言わずにうなずいて人の悩みや愚痴を聞いているイヴがそんなことを考えていたなど、露ほども思わなかった。
「いつのまに相手が出来たのかと思ったわ」
 騒然とする私たちに向かって、イヴは淡々と話してくれた。双子の姉が嫁いだこと(相手が超有名な世界的大企業の社長だったことにも驚愕)、つい最近事故死したこと(そういえば休みがちだった)、遺された子どもがいること、子どもは蔑ろにされていること――。短い言葉で淡々と語り終えると、「だから私が育てる」と結んだのだった。当時の私たちにはいまいち理解しきれなかったのだけれど、大人になるにつれて理解できることは増えた。だから、その辺りの事情はイヴが話してくれたこと以上を知っている。
 イヴのお姉さんと結婚は障害だらけ――というより障害しかなかったらしい。年の差、国籍の差、孤児であること、貧しい暮らしであることなど、反対しかされない結婚だった。それでも相思相愛の二人ならどんな困難も乗り越えて行けるはずだった。しかし、二人は事故で死んでしまう。たった一人の子どもを残して。順当にいけばその子が跡取りになるはずだったが、貧しい家の娘が産んだ子どもなど跡取りの資格がない、と判断したらしい。一体いつの時代の話だと思うけれど事実だから仕方ない。一応死なない程度に養育はされていたようだけれど、必要以外は誰も来ない日の当たらない部屋で一日放置されているような暮らしだったという。忙しい時など誰も訪れず、そういえば死んでたらいいのにな、と思って様子を見に来てはまだ生きていることに落胆して去って行く――そんな扱われ方だった。それを知ったイヴが、たった一人の肉親であった姉の忘れ形見を引き取って育てることを決意したのは、当然の理屈だった。
「これから中学に上がって、高校に行って、大学にも行くようになるのかなぁ」
 しみじみ言ったら、イヴは顔を曇らせた。何を考えているかなんて手に取るようにわかるのだ。
 イヴがクレディムくんを引き取る時、本家との関わりは一切ないと証文を書かせられたのだという。つまり、莫大な財産を放棄しろと迫られたわけだ。世界的大企業の一族の割りに、やることはせこい。
 そういうわけでイヴは、自分の稼ぎだけでどうにかここまで育ててきた。決して楽な暮らしではなかったから、果たして大学まで行かせられるだろうか? と心配しているに違いない。同時に、不自由のない生活を手放させてしまったことへの罪悪感を抱えていることも。
「言っとくけど、あんたが引き取らなきゃクレディムくん、小学校上がるまで生きてないと思うよ」
 嘘でも大げさでもなくそう思う。やることがせこくて見栄とプライドだけは高いあの一族なら、あっさり見殺しにするだけに飽き足らず積極的に何かやりそうだ。遺産狙いで人殺しくらいしかねない。
「無事に元気に育ってほしい、て思ってる人間に育てられた方が絶対いい」
 もしも不安ならば本人に聞いてみるといい。あの子はイヴのことが大好きだと言ってはばからないし言わなくてもダダ漏れだから。イヴが珍しくはにかむように笑うから私も微笑み返したら、玄関が騒がしい。
「ただいまーっ! あれ、イヴ、お客さん?」
 飛び込んできたのは、新緑のように緑がかった髪をもつ少年だ。私の顔を認めると久しぶりです! と笑って頭をさげる。
「お邪魔してます、クレディムくん」
 ひらひら手を振れば、にこにこと笑っている。ランドセルを置いて手を洗いに洗面所へかけていく。溌剌として、動いているだけでリズミカルだ。たとえ、莫大な財産を手に入れたとしてもあの家にいたらクレディムくんはこんな風に笑わなかったろうと思う。この世に生まれてくる命に懸ける願いの、最も輝くものを持っているイヴだからこそ、あの子はあんなに綺麗に笑えるに決まってる。