Note No.6

小説置場

第三章 01

 図書室の真下、廊下の一番奥にある美術室には、当然鍵がかかっていた。どうするのかと思ったら、成島は美術準備室の下にある小さい窓から中へ入り、鍵を開けてくれる。
 準備室に入ると、真正面に大きな窓があった。手前にカンバスでもあるのか、白い布がかかっていて下半分を隠しているけど、光が薄ら入ってくる。おかげで、ぼんやりと様子が浮かび上がる。窓の隣には、天井まで届く棚。作りかけの粘土細工だとか、丸められた画用紙、絵とかスケッチブックとか本とかが置いてある。棚の前には長机が置いてあるので、下はよく見えなかった。それ以外にも、鉛筆のデッサンとか、色塗り途中の油絵とかが壁に立てかけられていて、アトリエって感じだ。
「成島、あの窓鍵ついてないの?」
「んー? ついてるけど壊れてるよ。でも、僕用に黙ってるの」
「……しょっちゅう出入りしてるんだね……」
「まあねー」
 会話を交えながら、成島が準備室と美術室をつなぐ扉を開いた。閉め切られていた所為か、空気が淀んでいてむっとする。美術室は高い棚がないので、図書室よりはマシだけれど、暗闇に沈むようなのは変わらない。部屋の隅には暗がりが溜まっていてよく見えなかった。
 遠くから届く風と虫の声とお囃子をぼんやり聞きつつ部屋を見る。すると、周囲を照らしていた懐中電灯の輪が、すうっと移動した。追っていくと、俺の後ろ側で光が停止する。
「……生きてる……?」
 懐中電灯を操っていた遠山が聞いた。丸い光の中では、青白い顔をした仁羽がほほえんでいた。変な汗を浮かべつつ。
「はやくしろよ、成島……」
 細い声で言われて、成島は慌てて教室の一番後ろにある棚へ走っていく。どうやらあそこが美術部員の物置らしい。俺と遠山は、体ごと仁羽に向き直った。
「俺はこんな心霊スポット、さっさと出たいんだよ……!」
 聞いてもいないのに、仁羽がしゃべる。門限的にもマズイし、早く帰りたいのは俺もだけど……どうやら仁羽は、しゃべることで気を紛らわせているらしい。
「……美術室って心霊スポットだっけ?」
 聞いてみると、仁羽は強い目でこっちを見た。むしむしはしてるけど、汗だくになるほどじゃない。それでも仁羽はこめかみに薄ら汗を浮かべて、「美術室には大体あるだろ。禍々しく笑ってる女の絵が……!」と吐き捨てる。遠山と俺が何のことだ、とハテナマークを撒き散らすと苛立った声で先を続ける。
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、名画とか言われてるヤツだよ……!」
「あーはいはい、モナ……痛っ」
 名前を言い切る前に、仁羽に殴られた。目の前の顔は、ほのかな光しかなくてもよくわかった。目が完全に据わっている。
「その名前を、口にするな」
 呼んだら来るだろ、とか言うから、仁羽は一体あの絵を何だと思ってるんだ、と聞きたかった。犬か。
「あの絵は今までいろんな解釈をされてきた。謎が多いからな。だから、絶対たくさんの人間の思惑が交錯してんだよ。動いて危害くわえるなんて朝飯前なんだよ……! 美術室に忘れ物を取りに行ったらあの絵があって、不気味な笑顔で襲いかかって来て異界に取り込まれて行方不明になったり、喰われたりして次の日あの女が血まみれで笑ってるなんて話、ざらにあるんだからな」
 本気で言っているのがよくわかるくらい、響きが真剣だ。一体仁羽はどんな思考回路してんだ……頭いいキャラなんだから全ては科学で片付ければいいのに……としみじみしていたら、遠山がつぶやく。
「……聞いたことない……」
「全国探せばいくらでもあるんだよ」
 即答された言葉に、探さなきゃいいのに、と思った。だけど嫌なものこそ徹底してしまうのが仁羽なのかもしれない。
「鬼のような形相ならともかく、笑ってるからよけいに不吉なんだよ……!」
 鬼のような形相ならそれはそれで怖がるんだろう。わなわなと体を震わせて、変な汗を浮かべてつぶやく仁羽をどうすればいいのか。慰めたって意味なさそうだし。どうしようかなぁと思って、ちらりと隣の遠山を見ると、どうでもよくなったらしい。仁羽のことなど完全に無視して美術室を横切って入口に向かった。このまま仁羽の相手をしていると俺も不安になるので、ついていく。仁羽は一人にはなりたくないのか、渋々くっついてきた。
「……開かないね……」
 美術室のドアを内側から開けようとしたみたいだけど、やっぱり開かないらしい。遠山が照らした懐中電灯の光の中には、つるりとしたつまみ。上の図書室と同じように、外鍵しかついていないのだろう。変な構造だ。
「……なんで、内側から開かないんだろうね……」
 特別不思議にも思っていない口調で、遠山がつぶやく。仁羽は、外へ出られる出入り口から離れてしまったことが落ち着かないのか、そわそわしている。
「こっちの東側校舎は昔からあるし、別の使い方してたのかも?」
「ああ……誰か閉じ込めておいたとかね……」
 ぼそり、と言う遠山の台詞に反応して、仁羽の肩が揺れた。こういう時だけ豊かな想像力を発揮してしまうらしい仁羽のことだ、いろいろホラーな展開がよぎったんだろう。
「……生きてる?」
「……準備室に戻る」
 声をかけてみたら、顔を真っ白にして短く答える。こんな場所にいられるか! と叫んではいるけど声は細いし、放っといたら発狂しそうだった。でも俺だって、こっちを見下ろしている等身大の像とか、半分だけ見えてる肖像画とか、ある意味心霊アイテムいっぱいの部屋に長くいたいわけじゃない。
「えーと、じゃあ成島、俺たち準備室にいるから」
 写真集を探しているはずの成島に声をかけてから準備室に戻ると、仁羽は開いた扉の前に陣取っていていつでも帰れる体勢だった。俺も入口近くの壁にもたれている。淡い月の光を受ける準備室は、ごちゃごちゃしていて狭く感じるなぁ、と思いつつ隣に立っている仁羽を見た。顔は険悪だけど、眼鏡の奥はちょっと涙目だった。後からゆっくりとやって来た遠山は、ちらりと窓を見てつぶやく。
「……月がきれいだね……」
 ここからはわからないけど、遠山の位置からは月がちゃんと見えるようだ。詩的な言葉なのに、なぜだろう。遠山が言うとそんな風に聞こえない。
「……満月? よかったよなー、月明るくて。真っ暗だったら仁羽じゃなくても発狂しそう」
 あはは、となるべく明るい声で言う。遠山はうっすらと笑みのようなものを浮かべて、「満月ではないけど……明るいね……」と言いながら俺の前に到着。こんな月の夜はね、と言う顔がいつもと違ってとてもはっきりして見えた。
「月のきれいな夜は……水上神社の鏡池から……自分とよく似た河童が、出てくるんだよね……」
 淡々とした物言いなのに、声はしっかりと届く。淀みない口調で、先を続ける。隣で仁羽が固まっている気配がする。
「鏡池は……河童の世界との入口らしいよ……」
 何でもない口調だ。至って当たり前の事実を口にしているみたいだ。唾を飲み込んだら、思ったより大きな音がした。
「だからね……鏡池に落ちた死体は……絶対上がらないんだって……」
 なぜなら、それは死んだのではなく、河童の世界で暮らしているから……。のっぺりした顔つきのまま、表情の読めない声でつぶやく。
「今夜も……いい月夜だから……鏡池からは……河童が遊びに来てるんじゃない……」
 遠山の言葉に引きずられるように、見知った鏡池を思い浮かべる。水上神社の中にある、静かな池を頭に描く。
 きれいな月に照らされた鏡池。名前の通り、静かな水面には鏡のように影が映る。水中からぬらり、と出てくる影は、人間にしては小さい。人の肌とはまるで違って、全身が鱗で覆われている。頭には皿を乗せて水かきと甲羅を持ち、人ではない風貌をしている。それなのに、静かな水面に映った顔は、鏡をのぞきこんだように、自分そっくりの顔をしている――。
「っうわ、想像しちゃったじゃん!」
 思わず叫んだけど、遠山は全く気にしない。遥か遠くへまなざしを向けながら、淡々と言葉を流す。
「きっと今日も、どこかにいるかもね……。むしろ、代わりに祭りを楽しんでるかも……」
 しれない、という言葉を途中で切ったかと思うと、突然光が動いた。後ろを向く遠山とともに懐中電灯が壁を伝い、窓の辺りを照らす。
「……どうしたの、遠山……?」
「……何か……音がしたような……」
 しっかりと目を開き、にらむような視線を前へ向けている。かすかに聞こえるのは耳慣れた笛の音や太鼓の音、澄んだ虫の音で、それ以外には何も聞こえない。懐中電灯が照らすのは、準備室の一角、扉の正面。切り取られた窓と白い布、大きな棚がある。遠山は真っ直ぐに懐中電灯を動かした。丸い光は、棚の前に置かれた机の辺りを照らすけど、そこには何もない。机の下には影がたまっていて、はっきりしない固まりがあるだけだ。
「……気のせいじゃない……?」
 そうであってほしいと願いながら聞いた。仁羽じゃなくても、不気味な音とか正体不明の何かとは、なるべく遭遇したくない。
「……うん……」
 そうかも、とつぶやきかけた遠山の声に、音がかぶった。お囃子とは違ってメロディも何もない。虫の声とは違って澄んでいない、単なる音。気のせいじゃない。懐中電灯で照らされた辺りから、確かに聞こえた。隣にいる仁羽が悲鳴みたいな声をもらした。遠山は懐中電灯を動かさない。ぶれない光が照らす光景を、俺たちは見ている。
 机の下の影がゴトリ、と動いたように見えた。見間違いかと思って目をこすったら何も変わってないみたいで、やっぱり間違いかと思った。でも、また音がした。間違いようもなくはっきりと、机の下から音がする。唾を呑み込んで音の発生源を見たら、ふっと小さな影が動く。小さな子どものような、影が、机の下で動いている。
「――っ」
 ぎく、と筋肉が強張った。影が立ち上がろうとしたその瞬間、白い布がばさり、と落ちた。窓は閉め切られているのに、風に乗って落ちるようにゆったりと白い布が舞う。スローモーションのようにゆっくりと、滑り落ちていく白い布。その向こうに現れる、影。
(こんな月の夜は)遠山の声がよみがえる。(自分とよく似た)目の前に現れる、影。俺たちしかいないのに。(鏡池から)現れるわけがない、俺たち以外の影が現れた、瞬間。(河童が、出てくるんだよね……)自分によく似た別の生物が、にいっと嗤った気がした。
 全身の毛が逆立つ。何が起きているのか理解出来なかった。だけど、まばたきの後。
 どおおおおおおおおおんっっ!
 突然、空気を震わすような轟音が響く。それが合図だった。
「ぎゃあああああああああっっ!!」
 叫び声と走り出した影につられて、足が勝手に床を蹴り、全速力で駆け出した。誰かが何かを言ったのかもしれないし、音がしていたのかもしれないけど聞こえない。外の音は消えてしまう。きちんと音が戻ってきたのは、美術室からだいぶ離れた廊下で、呼吸をととのえている時だ。自分の息の音がうるさい。高く虫が鳴いている。笛の音。風が吹いている。
「……っ、は、……な、何、なにあれ、なに?」
 壁にもたれて座り込みつつ、つぶやく。見れば、俺より前でうずくまっているのは仁羽だ。
「や、やっぱり……っ、月がきれいだから、出てきたのか、な……」
 どうにか呼吸を落ち着かせようとする。仁羽はうずくまったままだ。心臓が暴れて、走った所為で噴き出した汗が、首筋を伝って落ちていく。
「お供えとか、したら、……いいのかな」
 少し呼吸が落ち着いてきた。しかし、どうしたら河童が引き取ってくれるかなんて知らない。きゅうりか、やっぱりきゅうりなのか。それとも人肉とかだったらどうしよう。それじゃ新たなるホラーの幕開けだし……。ぶつぶつ考えていたら、仁羽がむくりと立ち上がった。その顔は眉間に深くしわが刻み込まれ、目が吊り上がっている。でも涙目だった。つかつかと近寄ってくると俺の前に立ち、見下ろされる。何を言えばいいかわからなかったので、とりあえずへらりと笑いながら言ってみた。
「……怖かったよな、今の」
 別に信じてたわけじゃない。実際に河童を見たことがあるわけでもないし、あんなのただの都市伝説とか怪談みたいなものだ。だけど実際見てしまった。俺たちしかいないはずの部屋に現れた、誰かの影。特別何かをされたわけでもないけど、俺の知らない別の世界が、理屈の通じない絶対的な何かが、そこにある気がして、体中がぞわり、とした。
「あれはちょっとタイミングよすぎるよなー。話題にしてた正にその瞬間って」
 視線を合わすために俺も立ち上がる。多少仁羽の方が背は高いけど、視線は大体同じくらい。汗なのか恐怖なのか目は潤んでいるけど、仁羽はにらむようではなかった。
「あんなのさ、仁羽じゃなくたって怖いだろ」
 ゆっくり深呼吸をすると、熱い息が漏れた。それでも呼吸はだいぶ落ち着いている。怖いことなんて、きっと誰にでもあるんだ。実際俺には怖いことなんてたくさんあって、たぶん仁羽ならなんてことないことが、俺には怖くて仕方ない。仁羽が怖いって思うのと同じくらい、やっぱり自分じゃどうしようも出来ない。
「俺もあれは、怖かったよ」
 怖いことがあるなんて、そんなの当たり前だ。だから、恥ずかしいことみたいな、自分だけが間違えたみたいな、そんな顔をしなくたっていいのに。そういう気持ちをめいっぱい込めて告げれば、仁羽は怪訝そうな顔をした後、数秒してから口を開く。何かを言いかけたらしいけど、結局声にはならなかった。代わりにため息を吐いて、少し唇をゆがめた。笑ったみたいだったから、俺も一つ笑いを返す。それから、ついでのように言った。
「……で、どうしよう?」
「……」
 仁羽は黙るだけで聞き返してこないから、わかってるんだろう。だってここには、俺と仁羽しかいない。遠山と成島がいなかった。
「……美術室だよな……」
 ぼんやりつぶやく。あの二人は大物だから、逃げ出さないまま残っているんだろう。仁羽は黙ったままで、いらいらした様子で頭をかいて、苦々しげに舌打ちする。その様子に、俺は恐る恐る声をかける。
「だって戻らないと……超嫌なヤツだよ……?」
 置いて逃げただけでも充分嫌なヤツだとは思うけど。仁羽はわかってるよ、と凶悪な顔で返した。「わかってるけど、戻り辛いだけだ」と、顔をしかめて言うから、俺も心から同意の言葉を返す。
「いや、うん、確かに、俺も戻り辛いんだけど」
 置いて逃げた相手の所に向かうなんて、気分のいいものじゃない。ものすごく戻りにくいのは確かだ。だけど。