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Note No.6

小説置場

第五章 03

 眩暈だと思った。だけどすぐに、風の所為だと悟って慌てて枝をつかみ直そうとしたけど上手く行かない。持っていたはずの枝が指から離れて体が前に傾ぐ。ちゃんと踏ん張れなくて、膝から力が抜けた。
 落ちる、と思った。本能的にぎゅっと目を閉じる。
 だけど、思ったような衝撃はやって来なかった。ずっと前に感じたような、叩きつけられる痛みはない。恐る恐る目を開くと、運よく前に傾いたおかげで、枝に座り込んで太い幹に抱きつく格好になっていた。ぎしぎし、体重で枝が揺れる。
「……っはあ」
 危ないな、もう少し気をつけないと。誰も見てないのに、苦笑いを浮かべてしまう。心臓がまだ鳴っていて頭に響いているけど無視して立ち上がる。下に行かなくちゃ、と視線をやってぞくり、と背筋が粟立った。
 あれ、俺はどの枝に足を置けばいいんだっけ? どうやってここから下に行けばいいんだ?
 下を見ると真っ暗な穴がぽっかりと口を開けているみたいだ。落ちてくるのを待ち構えている。その上に巡らされた枝のどれを選べばいいのか、どう進めばいいのか、さっきまでわかっていたはずなのに。どういうわけか唐突に、思考回路はショートしてしまったらしい。一体どの道が安全で、どう行けば無事落ちないで辿り着けるのか。
 すうっと、腹の底が冷たくなるのがわかった。視界が急に狭くなった気がする。駄目だ、と思った。どうしよう、どうしたらいいんだっけ。次は何をしたらいいんだ。体がまるで動かない。筋肉が強張ってしまって、動くことを拒否している。
 下を見つめたままで、真っ暗な穴を見ているしか出来ない。首一つ動かせなかった。頭と体は俺の意識を離れたのか、めまぐるしくさかのぼる。頼んでなんかいないのに、こんな風に木の上で立ちすくんでいたあの日のことを再生する。暗闇を見ているしか出来ない俺の目に。
 夏休みの前、からっとした天気だった。友達同士で集まって、何をする? って話になった。誰かが木登り! と叫んで、それじゃあ誰が一番高くまで登れるか競争しようって言ったんだ。
 俺は木登りが得意だった。学校にある登りやすい木は大体知ってたから、一番になってやるって張り切ったんだ。そしたらきっとすごいねって言ってくれる。褒めてくれる。木登りには俺がいなくちゃって思ってくれるかも。あの日俺はすごく調子がよくて、別の木に登っている二番目のヤツとはずい分離れていたような気がする。空と太陽が近かった。てっぺんでちぎった葉っぱの匂いも気持ちよかった。不安定な足元でさえ面白かった。
 かろうじて唾を呑み込んだ。知りたくないのに。思い出したくないのに、俺の記憶は勝手に引き出しを開け放つ。瞬きしか出来ない目に、あの日の光景が映っている気がした。
 誰よりも空と太陽に近い場所にいた俺のことは、見えていなかったのかもしれない。俺だっていつもより高い景色に興奮していたから、だからきっと俺を呼ぶ声が聞こえなかったんだ。気がついたら、一緒に登っていたヤツらは俺以外、みんな地面に下りていた。
 ぐっと唇を噛んだ。ゆっくりとまばたきをしても、浮かんだ光景は散らない。腹減ったから何か食べに行こうぜ、とかきっとそんな話をしていたんだろう。誰より高い場所にいた俺は、空高くからクラスメイトを見ていた。笑いながら去って行く姿を。俺がそこにいなくても、当然のように笑いあっていたクラスメイトたちを、見ていた。
 俺は一体どうしたらいいんだろう。あの日のことを思い出しただけで、こんなに足がすくんでしまう。まざまざと見せつけられたことが苦しくて、どうしたらいいかわからないんだ。同じように木の上で立ち往生している俺は、少しも進歩していない。どうしよう、どうしたらいいんだっけ。次は何をしたらいいんだっけ。俺はどうしたらいいんだっけ。
「……止まんなっ」
 不意に声が聞こえた。強張った体では見えないけど、それは確かに上から聞こえた。俺の後から来ているはずの仁羽の声だ。さらに、仁羽に続くように下から声がやって来る。
「園田?」
「どーしたの? 園田だいじょーぶ?」
「園田、止まってんじゃねーよ、ちゃんと進め!」
 上から仁羽の声まで降って来て、止まっていた頭の一部が回復したらしい。ぎ、と固まった筋肉を動かして足を踏み出そうとするけど、簡単には行かない。あの日、置いていかれた。呼んでくれなかった。骨の折れる音。決定的だった。痛くて痛くて仕方なかった。
 心臓の音が聞こえている。短く息を吐く音がうるさい。暑さの所為だけじゃなくて、汗が落ちていく。全身が悲鳴をあげている。思い出したくない。何も考えたくない。しゃがみこんで何もかも投げ出したい。こんな怖いこと終わりにして俺のことは置いていってくれていい。もういい、いなかったことにして見なかったことにして、放り出していい。動けない。立ちすくんだままだ。泣き喚いて終わりにしたい。
 だけど、声が聞こえる。返事がないから、ずっと名前を呼んでいる。泣きじゃくりたい俺の耳に届いて、思い出す。置いていっていい。見なかったことにしていい。放り出していい。いくら思ったって、許すはずがないんだ。そんなのとっくに知っている。迷惑だって言ったって、嫌だって言ったって、許してくれなかった。だから俺はここにいる。
 耳に残るのは俺の名前だ。呼んでいる。俺の名前を覚えていると言ったじゃないか。だからちゃんと呼んでいる。あの日と同じじゃない。全然違う。口を開いた。からからに乾いていて喉が痛い。それでも絞り出す。あの日には聞こえなかった名前が、俺の名前が聞こえているなら。
「……なる、しま」
 とっておきの呪文を唱えるみたいに、口に出す。ずっと心の中だけでとなえていた誰かの名前じゃなくて。
「とおや、ま」
 誰かの名前を呼びたかった。名前はたくさん知ってたけど、呼んでいいかわからなかった。答えてくれるかわからなくて、拒絶されたらすくんでしまう。だけど俺は知っている。俺より先に、呼んでくれる人がいた。忘れないと言った人がいる。
「にわ」
 心の中だけで呼んでいた名前を、口に出す。誰かじゃなくて、ここにいる三人の名前を、喉を震わせて呼ぶ。俺はここにいるって伝える。待っていてくれる人に。後から来てくれる人に。きっと届く、ちゃんと聞こえる。
 ぐっと深呼吸をして、肺いっぱいに酸素を取り込んだ。喉を開いて、周りの葉っぱを全部揺らすみたいに、腹の底から声を出す。固まっていた筋肉がぎりぎり動く。
「成島! 遠山!」
 叫ぶと、下から声が聞こえた。「園田ー、平気ー?」と言っているのはきっと成島だろう。思いっきり深呼吸してから、「今から行く!」と答えたら「待ってるよー!」と返事がある。強張っていた筋肉がばきばきと音を立てる。もう一度息を吸った。
「仁羽、もうちょっと待って!」
 真っ白になった頭でそう言えば、不機嫌そうな声で「さっさとしろよ」と返してくる。声と共に息を吐き出したら、自然と大きく酸素が入ってくる。頭の中身を一度全部さらったみたいだ。そうだ、あの時とは違うんだ。それなら俺は、再び動き出せるはずだ。
 慎重に深呼吸をしてから、下を見る。これだ! と確信は持てないけど、目を凝らせば枝が見える。なるべくがっしりしている、太い枝の、根元に近い部分に足を下ろす。幹に手を置きつつ、少しずつ体重を移動して、完全に下り立つ。揺れてはいるけど落ちる気配はない。これなら行ける、今なら行ける。進めば進むほど、確かな地面が近づくはずだ。
 木の中は風通しが悪い。むっとするほどの植物の気配は息苦しく、視界を阻むような枝と葉っぱはちくちくと、些細ながらも確かに体力を削り取る。短い呼吸音と、ばくばく響く心臓の音がうるさい。汗で張り付いたシャツが気持ち悪い。首すじや背中を伝っていく汗をことさら意識してしまうのはたぶん、額から落ちる汗が目の中に入るからだ。
 袖でいくら目を拭ってもあまり意味はなくて、すぐに視界はにじむ。はっは、と息の音がしている。頭上で小さく揺れているのは、きっと仁羽が来ているからだ。下には遠山と成島が待っている。疑いなくそう思える。冷静な判断力なんてもうどっかに行ってしまった。難しいことなんて考えられなくて、ただシンプルに思える。頭より先に、たぶん体が知っている。だって、いくら拭っても溢れて止まらない。
 上を見た。滴が頬を伝って落ちていくのがわかった。深呼吸をする。
 あの日俺は、遠ざかっていくクラスメイトを眺めながら、やっと悟った。今までずっと気がついていたのに、知らないフリをしていたことを、やっと悟った。そうだったんだ。一緒に木登りをしに来た。帰る時に俺はいなかった。隣で遊んでいたのに、いなくなっても構わなかった。いないことが当たり前みたいに、いなくたって困らないみたいに、みんな笑ってる。俺がいなくたって、当たり前のように笑ってる。
 あの日、俺は悟ってしまった。俺はきっと、要らないってわけじゃない。だけどたぶん、いなくたっていいんだ。
 目を閉じる。静かに頬を伝うものを感じる。少しだけ立ち止まった。
 あの時、俺は必死で後を追いかけた。下なんて見ないで、勘で下りていったら枝を踏み外した。枝と葉っぱにぶち当たりながら、地面に落ちた。苦しくて痛かった、けど――。ひとりきりになるくらいなら、みっともなくたってみじめだっていいから、みんなの中にいたかった。知らないふりをしたかったんだ。いなくていいって思われるくらいなら、馬鹿みたいでいいから何だって我慢出来たんだ。だって、名前を呼んだら振り向いてくれるし、遊ぼうって言ったらうなずいてくれたし、すごいねって言ったら、笑ってくれた。一緒にいたら楽しいって思ってくれたし、嫌われていなかったし、仲間に入っててよかった。たとえ、俺は声をかけられなくても、遊びに誘ってもらったことがなくても、忘れられても、後回しにされても。俺の名前は、呼ばれなくても。
 目を開いた。頭の中でこだまする、静かに耳に、聞こえる声。俺の名前を、呼んでいてくれる。前を見る。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる幹とか枝とか、葉っぱを見る。深呼吸してから、足を踏み出した。きっと地面は近い。あの日みたいに木の上にいるけど、俺はちゃんと知っている。俺を置いていってもいいって言ったのに、許してもらえなかった。理不尽だって思ったし、ひどいとも思った。でも、俺は置いていかれなかった。見捨てられなかった。
 ポケットの中のうさぎ。大事なものを渡して、大丈夫って言ってくれた。澄んだ笑顔である意味強制的に、背中を押してくれた。怖い顔をしていらいらしながら、何だかんだ言っても、ちゃんと支えてくれていた。そして何より、「待ってるから」って言ってくれたんだ。後からちゃんと行くって、言ってくれたんだ。俺はちゃんと知っている。
 ちらり、と下を見る。暗闇の色が薄くなっているような気がする。再び枝に足をかけると、大きく木が揺れて葉っぱが落ちる。一歩を確かめながら下りれば、暗闇がはがれていく。ついには、みっちり詰まった葉っぱにも終わりがやって来る。地面まではまだ少し高さがあるけど、やっと最後の枝に到着したみたいだ。
「園田だ!」
 わあ、と両手を挙げた成島がぴょんぴょんと飛び跳ねる。俺は幹に手を置いたままで、最後の枝に立っている。
「……いらっしゃい?」
 ぼんやりと、だけどほのかに笑みを乗せた遠山も近づいてくる。幹に手を添えつつ注意深くしゃがみこむと、二人の顔がよく見えた。
 今まで押し寄せるようだった葉っぱが突然なくなって、空間が広がった気がする。いきなり放り出されたみたいで少し頼りない。だけど、大丈夫だ。地面はもうこんなに近い。夜に沈んでいるけれど、ここにある。