Note No.6

小説置場

Sternenlicht

 壁にもたれて、空を見上げた。高層ビルに切り取られた夜空は、薄らと星が出ているようだ。はっきりとは見えないけれど、今日の天気は晴れだったはずだから一等星くらいは見えるだろうか。
 ぼんやりそんなことを考えながら、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干す。主要な都市ではよく見かける、チェーン店のコーヒーショップのものだ。味の違いなんてわからないけれど、温かいものが飲みたかったから丁度いい。ボトルか何か持って来た方が良かったかなぁとも思うものの、行き交う人の中でボトルを取り出すのも中々勇気が要りそうな気がする。格好いいボトルとかじゃなく、単純にただ年季が入ってるだけのボロだし。
 こっそり息を吐き出しながら、通りを歩く人たちをぼんやり眺める。普通に歩いているだけなんだろうけれど、誰も彼もが洗練されて見えてしまうのは、場所が場所だからなんだろう。いつもの俺の生活範囲とはまるで違う、全てが最先端の都市だからだ。自分がどれだけ場違いなのかなんてことは、嫌になるほどよくわかっている。ファッションなんて大して気にしない――というよりわからないし、流行なんてそれこそ何周遅れに違いない。田舎に引っ込んでいるのが性に合うなんてこと、自分が一番よくわかっている。だから、こんなに全てが洗練された場所は落ち着かない。
 空になったカップを捨てることも出来ず、手持ち無沙汰に弄んでいると、腕時計の針が目に入る。俺がここへ来てからもうすぐ三十分。そろそろタイムリミットだな、と思う。急な仕事が入ることもあるから、三十分経って来なかったら帰ること、と言われている。本当なら何時間だって待っていられるんだけど、そんなことしたら気に病んでしまう人だっていうことはよくわかっている。だから、三十分経ったら帰ることにはしている。別に俺は気にしちゃいないんだけど、泣きそうな顔で謝るから嫌だなぁとは思う。心底申し訳なさそうに、ひどい間違いでも犯したみたいに謝る顔は、あんまり見たくないんだけど。上手く言いくるめられないものか、でも俺より口回るからな、なんてことを考えていたら、不意に影が落ちた。反射的に顔を上げるのと同時に、声が飛び込んでくる。
「――フィル!」
 少し高い位置にあるのは、見慣れた顔だ。切れ長の一重の目に、すっと通った鼻筋。健康的な体躯を持ち、軽やかに目の前にたたずむ。
「宰人」
 思わず名前を呼び、視線を向ける。落ち着いているようにみえるものの、常にきちんとセットしている深い茶色の髪は、今は少し乱れている。全速力で走ってきたんだと思う。肩で息をしてるし、この季節なのに額に汗を掻いている。「悪い。間に合ったか?」という声は、少し上ずっていて呼吸が整わない。かっちりしたシャツにスラックスという出で立ちは、全力疾走とは不釣り合いだけれど、宰人なら躊躇いなくそうするだろうな、と思う。俺は、しばしその顔を見つめてから思わず笑った。
「何だ? 俺、何か変?」
「いえいえ、そんなことないですけど」
 ぶんぶん首を振って否定するけれど、宰人は不審そうな顔をするだけだった。まあ、それもそうだろうとは思うけど。
「――変ではないです。ただ、そんなに走って来なくてもよかったのになぁと思って」
 息せき切ってやって来てくれた宰人は、この街によく馴染んでいる。高価なものを身につけているわけではないのに、洗練された雰囲気が身体中から溢れていて、この都市で生きている人間なのだと否が応でも理解する。俺とは全然違って、滲みだすような上品さがあるのだ。
「フィルが待ってるなら、走るだろ」
 当然といった顔で落とされた言葉に、俺は益々笑みを深くする。洒落た空気を持つ宰人は、ともすれば、走ることも汗を掻くことも良しとしないような雰囲気がある。だけれど俺はよく知っている。いつだって宰人は先陣を切るし、走ることだって厭わない。自分で行動することを決して嫌がらないし、誰かが待っていると知っていれば全速力で走ってくる人間なのだ。
「うん。宰人ならそう言うと思ってた」
 どんな場所でも宰人は宰人のままなのだ。はっきりそう思うと同時に、さっきまでの居心地の悪さが消えていくのを感じる。理由なんて簡単だった。宰人がいるなら、瞬く間にそこは俺の居場所になってしまうんだから。
「それに、三十分経ちそうだったから余計に慌ててたんだよ。一人で帰らせることになったら、ルムと嘉蓉に散々怒られるからな……」
「そんな大袈裟な」
 遠い目をしてつぶやくから、冗談だろうと笑い飛ばしたんだけれど。宰人は真顔で「いや、本当に」と返してきた。
「匡弥とノトにも『信じられない』『正気か?』みたいな顔されるんだぞ」
「……一応俺、成人してるんですけどね?」
 どうやら冗談ではないようだな、と思ってそう返してみる。宰人は肩をすくめると「それは俺も知ってる」と言ってから続きを口にする。
「フィルが何も出来ないなんて思っちゃいないさ。むしろ、一人で大体のことは出来るって全員知ってる。それでも、何かあったらどうしようって心配なんだろうな」
 何せ、と宰人は言葉を続ける。くすぐったそうに、大事なものを抱きかかえているみたいな顔で、溢れんばかりの光に彩られた声をして。
「うちのかわいい子たちだからな」
 誇らしげに胸を張るから、俺も深くうなずくしかない。家で待っている、やさしい四人の子どもたち。血のつながりは欠片もないけれど、同じ家でずっと過ごしてきた。心根の真っ直ぐな、人にやさしくすることを終ぞ忘れることのない子たちなのだ。俺の心配をするのも、道理というものだろう。
「今日は、フィルをちゃんと接待するように仰せつかってるしなー」
「え、何ですかそれ。聞いてないんですけど」
「言ってないし」
 飄々と言ってのけた宰人は、「さて」とつぶやく。俺の肩に軽く触れ、指差すのは大通りの向こう側だ。そっちに目的地はあるらしい。
「それじゃ、取って置きの店に案内するぜ」
 にこり、と浮かべられた笑みは営業用のようにも見えて、だけれど心底楽しんでいることがうかがえる。それがわかる程度には、俺と宰人の付き合いは長かった。こうなったら後には退かないということも含めて。俺は一つため息を吐く。
「それじゃ、精々接待されることにします」
「そう来なくちゃな」
 言うと、心底嬉しそうな笑顔を浮かべるので、まあいいかなぁなんて思ってしまうから俺もつくづく宰人には甘いんだと思う。歩き出すのと同時に、宰人は自然な動作で俺の手にあった空のカップを受け取り、ついでにその続きみたいな調子で「そこ段差あるから」と告げる。
「ああ、本当だ」
「暗いから、余計に見えにくいだろ」
「そうですねぇ。路面もあんまりよくないんですよね」
「コケないようにな。フィルが慣れてるのは知ってるけど」
 言って示すのは、左足に装着した義足のことだ。確かに慣れてるし、普段なら問題なく歩くことが出来る。ただ、初めての場所なんかはちょっと危うい。それを知っているからこその台詞なんだけれど、宰人の口調はどこまでも淡々としている。憐憫も同情もなく、ただ事実を告げるだけの言葉だ。
 最初に会った時から、宰人はこんな風だった。多少の驚きはあったみたいだけれど、その内慣れたらしい。たとえば目が青いとか金髪だとか、そういうものと同じくくりで俺には左足がない、と認識しているようだ。
「たまにならいい訓練になるかもしれないなっていう気はします」
 本心からそう言えば、宰人が面白そうに笑った。ただ、「帰ったらそう言っておいてくれ」と続くので、どういう意味だ、と首を傾げる。宰人は大げさに溜息を吐くと、事の仔細を教えてくれた。
「あいつらその辺過保護だよな。慣れてない所に行くんだから、ちゃんとエスコートするのよ! やら、初めての場所なんだから何があるかわからないんだよ、ちゃんと注意してよね、やら」
 懇々と注意事項を羅列されたらしく、俺は何とも言えない表情を浮かべるしかない。それは決して俺を侮っての言葉ではないのだ。くすぐったいような、砂糖菓子で出来てるみたいな、ひたすらのやさしさゆえの言葉たち。
「お前の松葉杖さばきとか見せてやりたいレベル」
 そこ右、と路地を示しながらの言葉に従いつつ、俺は肩をすくめて「また懐かしい話を」と答える。宰人はにやにやと、「あいつらはその辺を知らないから、過保護になるんだよ」なんて言っている。
「松葉杖を凶器にしながらクラスメイトをボコボコにしてたもんな」
「片足だから簡単に倒せるって思ってるのがそもそもの間違いなんですよ」
 身体的に弱者だと言っても、黙ってやられる趣味はない。対策は練っていたし、練習もしていたし、似たような輩は多かったので、実践の機会だけは多かった。宰人はしみじみとした顔で「助けとか要らないなって悟った」と言っていて、きっと当時のことを思い出しているんだろう。
「今はさすがにボコボコにしませんよ」
「凶器ないもんな」
「そうなんですよ、松葉杖って意外と応戦出来るんですよね――って違います。教育上良くないじゃないですか」
 真似するような子たちだとは思っていないけれども、だからと言って積極的に見せたいわけじゃないのだ。宰人は目尻を細めて「まあ確かに」とうなずく。それから、こらえきれないと言った調子で笑みをこぼした。
「しかし、あの、松葉杖でクラスメイトをボコボコにしてたフィルが、教育上良くないって言い出すんだからなぁ」
 人間成長するんだな、と言われるので。俺としては不本意そうな顔をするべきか、それともむくれるべきか、なんて思ったのだけれど、そんなこと考えるまでもなかった。
「半分以上は宰人のおかげですよ」
 思わず笑みが浮かんだのは、あの子たちの姿がよぎったからだ。可愛くてやさしい、血のつながらない、俺の家族。初めはみんな独りぼっちだった。それが次第に今の形になったのは、何もかもを宰人が始めたからだ。
「宰人がいなければ、きっと俺は独りぼっちのままだったし。教育上どうかなんて考えなかったし、気性だって荒いままだったろうし、松葉杖で応戦だってしてたと思いますよ」
 軽口に混ぜて言ってみるものの、これは紛れもない俺の本心だ。宰人がいなければ。あの時、たとえ気まぐれからだったとしても、俺に声をかけてくれなければ。きっと俺は、こんな風に穏やかな気持ちで毎日を過ごすことは出来なかったはずだから。
 宰人は俺の言葉に、数秒呆気に取られたような顔をした。だけれど、すぐにくしゃりと表情が崩れた。泣き出す前みたいな、それでいてどこまでもやわらかな笑みを浮かべて。
「――それは俺の台詞だ、フィル」
 宰人にしては細い声だった。でも、それがどんなにやさしい声音なのかわからないはずがない。繊細で、触れたら壊れてしまいそうなくらい美しくて、じんわりとした温みを宿した声。
「俺の提案をお前が受け入れてくれて、それだけで有難かったのに。そこから俺のワガママだって、たくさん聞いてくれた。お前が愛想を尽かさなかったから、だから今日があるんだ」
 お前はそんなことないって言うんだろうけど。続けた宰人は、真っ直ぐと俺を見てやわらかく笑った。初めて会った時から何一つ変わらない、澄んだ光を宿す目を細めて。
「お前がいたから、俺たちの今があるんだよ」
 どんな打算もない、真実心からの言葉だ。俺が思うのと同じように、宰人も同じことを思っているのだとわかる。それがわかるくらい、過ごした時間は長かった。俺が宰人に思うのと同じ気持ちで、宰人は俺に言葉をくれている。じわじわと胸に広がっていくのは、喜びに似ていた。どうしようもないほどの切なさにも似ていた。嬉しくて、胸が締めつけられて、苦しくて息も出来ないほど、満たされている。
「――確かに、いきなり子ども連れてきて、今日からうちで育てるって言われて愛想尽かさなかったのは、我ながらすごいなとは思いますけど」
 息を吐き出すのと一緒に、冗談めいた言葉を唇から落とす。そうしなければ、街中で泣いてしまうと思ったから。宰人は気づいているのかいないのか、軽い口調で言葉を返してくる。
「最終的にはお前も連れて来たからおあいこだろ?」
「人数的にはそうですけど。宰人という先例があるからこその行動ですよ」
 屈託なく言い合いながら、夜の街を歩く。ゆったりとした足取りで、気づかないくらい自然に宰人は俺を気遣って、俺は俯くまいと背筋を伸ばして宰人の隣を歩いている。こんな風にきっと歩いて来たのだ、俺たちは。偶然から始まった色々なものを必然に変えながら。ほのかな光を丁寧に抱きしめて、俺たちはずっとこうして歩いていく。