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Note No.6

小説置場

いつか、ふたたびの春に。

Scene 1――十六歳

 


(願わくは、花の下にて)

 


 神社の石段をゆっくり下っている。急な角度であることに加え、日は沈み、辺りはすっかり暗闇に染まっているのだから、駆け下りていくなど確かにもっての外だろう。申し訳程度に外灯は設置されているが、足元は暗いままだ。もっとも、遠山がのそのそとした足取りで進んでいるのは己の身の危険を顧みたからではない。単に面倒なだけである。
 石段の両脇にはうっそうと木々が立ち並んでいる。ほとんどが色濃い緑を宿しているが、時折満開の桜が混じっていた。わずかな光を拾い上げるようにして、その場所だけ明るさを放っている。遠山はそれをぼんやり視界に映してから、一つ大きなあくびをした。取り立てて興味を惹かれるものでもなかったので、のろのろと足を踏み出す。すると、声がした。
「遠山ーっ!」
 己の名前を呼ぶ声に、遠山は前方へ目を向ける。いつの間にか随分と距離が開いてしまったようで、思ったよりも下の方から声が聞こえてきた。そこにいるのは、遠山のよく知った彼らだ。ここまで引っ張り出してきた張本人たちでもある。
 名前を呼んだのは園田だったようで、大きく手を振って、自分の位置を知らせている。遠山は薄らと口元に笑みを浮かべ、申し訳程度に手を振り返した。恐らく、彼は中々やって来ない自分に向けて伝えたかったのだ。待っているのだと。置いて行ったりなんてしていないのだと。
 わざわざそんなことを言わなくてもいいのに、と遠山は思っている。だって、彼がそんなことをするわけがないことなど、充分に知っているのだから。
「遠山、寝ちゃったのー?」
 のんびりとした、だけれど不思議とよく通る成島の声が響く。ついでに、「んなわけねぇだろ」という仁羽の剣呑な声も飛び込んできて、遠山は内心でこっそりと笑った。結局の所、と思う。自分がこんな所までやって来たのは、彼らが手を引いたからなのだ。
 石段の下の方に固まっている三人は、遠山を見上げて何やら言葉を交わし合っている。ここまでその声は聞こえないけれど、きっといつもと変わらぬやり取りをしているのだろうと察せられた。中学生のあの時、教室で過ごしていた頃のように。何一つ変わらないような顔をして。たとえ、あの頃とは違う、見慣れぬ制服に身を包んでいるとしても。
 遠山は立ち止まり、下方に位置する三人を見ていた。遠山が着ているものとは違う、高校の制服姿の三人を。
 最初に言い出したのが誰だったのかははっきりしない。だけれど、十中八九、こういうことを言い出す人間は決まっていたから、たぶん発案者は成島なのだろう。ふわふわの髪を揺らして、メノウ様を掲げて、目をキラキラさせて言ったのだ。
(お花見に行かなくちゃ!)
 それぞれが高校へ入学してから少し経った頃のことだ。突然連絡が来たと思えばそんな話で、相変わらず成島は突飛だった。遠山はただ「そういえば花見には行っていないな」と事実を認識したのみで、反対する理由もなかったので流れるままにしていた。どんなやり取りが交わされていたのかはわからないが、最終的には放課後夜桜を見に行く算段になったのは、全員の折り合いのつく日がその辺りにしかなかったからだろう。見に行くものがものだけに、あまり時期を延ばすことも出来ないのだから。
 果たして未だに咲いている桜はあるのだろうとか、と思っていたのだが、どうやらそこはかろうじてクリア出来たらしい。「知り合いの情報だけど」と言って、園田が駅向こうの神社を挙げたのだ。夜の神社などという案件に、仁羽は大いに渋ったのだけれど、条件に合う場所はそこしかなかった。散々文句を言い続けゴネたものの、成島の決意を翻させることなどほとんど不可能に近い。結果、ソメイヨシノであるかは疑問だったが、ひとまず遅咲きの桜を見ることは出来た。
(メノウ様も喜んでるよ!)
 ひとまず一番大きな桜まで行こう、というわけで石段を登り境内までやって来た所、成島はそう言った。桜を見上げる姿は心底嬉しそうで、メノウ様を頭上に掲げてきゃっきゃっと笑っていた。その様子を見つめる遠山は何だか不思議な気持ちだった。ずっと見ていた。成島のこんな光景なんて、ずっと見ていたはずなのに。どうしてなのか、特別なことのような気がしてしまうのだ。
(お前は相変わらずだな)
 呆れたような顔をした仁羽が成島に向けて言うけれど、その声にはわずかに別のものが混じっているような気がした。遠山は不思議そうな顔をしたまま、仁羽を見ていた。
(高校に入ってもそのままかよ)
(もちろん!)
 仁羽の言葉に成島は胸を張って答える。それはまったく今まで通りの、何一つ変わらない光景のはずだった。今までだってずっと見てきた、呆れるくらいに繰り返された光景のはずだった。
(――遠山?)
 面白そうに二人のやり取りを眺めていたはずの園田が、遠山へ声をかける。明るさを宿したようでいて、気遣いをやわらかく内包した、園田らしい声の調子だった。遠山はぼんやりと、声の主へ目を向ける。いつもと変わることのない、明るい笑顔で何でもない顔をして、周囲の様子を察知して魔法みたいに人の心を掬い上げる園田の顔を。
(――制服)
 たっぷりの沈黙の後、遠山は口を開いた。園田が「制服?」と尋ね返したのは、聞こえなかったからではないだろう。遠山はうなずいた。
(制服、ブレザーなんだね……)
(――ああ。そうなんだよな。何か慣れなくて)
 今まで学ランだったからさ、と告げる園田は高校の制服を着ている。それはもちろん園田だけではなく、仁羽だって成島だって、無論遠山だってそうなのだ。
(ネクタイとか上手く出来ないんだよな。遠山はネクタイないんだっけ? ブレザーだよな)
(あるけど締めてないだけ……)
(やっぱりか)
 弾けるように笑う園田に、薄い笑みを返した遠山は、心の中で息を吐いたのだ。そうか、と思った。そうか、俺は高校生になったんだな、と。
 そこにはどんな感慨もなかったし、ましてや喜びも、悲哀さえも存在しなかった。ただの事実確認であり、特別な意味は何一つなかった。ただ不思議な気持ちだけが薄らと漂っていたのを、遠山は覚えている。
「――遠山っ! 大丈夫かー!」
 下の方で声がして、遠山は我に返った。石段の途中で立ち止まっていることに気づいたらしい園田が、心配そうに声をかけている。問題はない、ということを示すべく一応手なんて振ってみたのだけれど。恐らく、仁羽がしびれを切らしたのだろう。待っていても埒があかないと思ったのかもしれない。成島を先頭にして、三人がこちらへ歩いてくる。真っ直ぐと、何一つためらうことなく、そうすることが当たり前のような顔をして。
 遠山はその光景を見つめている。14歳だったあの頃に出会った人たち。同じ制服に身を包んでいたあの時間は終わり、それぞれが別の場所で生きている。異なる制服を着て、知らない世界で生きている。それでも、彼らは今もまた、ここまで真っ直ぐと歩いて来る。
 成島はぴかぴかと光る笑顔を浮かべている。仁羽は呆れているようにも見えるけれど、愉快そうな表情がにじんでいた。園田はゆったりと笑っている。誰かのために明るさを取り繕うのではなく。心から湧き上がるような、ただ穏やかで丁寧な、じわじわと広がっていく微笑みだ。
 何も言えないままそれを見つめていると、不意に風が吹いた。周囲の木々がざわざわと大きく揺れ、咆哮する。随分と強い風だ。一瞬の内に吹き抜けていくのと同時に、石段の桜から花びらを舞い上げる。満開の花はゆるやかに終わりへと向かっていたのだろう。ほんの数秒。それでも確かに、遠山の視界は花弁で埋め尽くされる。
 呼吸を忘れたのは、咄嗟に思ったからだ。今ここで、と遠山は思った。突き動かされるように遠山は思った。
 視界に広がる、薄紅の花びらに。祝福のように降り注ぐあざやかな花弁に。舞い散る淡い紅色の向こうで、頭上の花びらを見上げて笑う三人の姿に。どうしようもなく遠山は思ったのだ。
 祝福のようだ。まばゆいほどの光だ。周囲は暗闇に沈んで、光なんてほとんどないとわかっている。それでも、こんなにもここは明るい。花びらに埋め尽くされる世界の向こうで、三人が笑っている。ここまで真っ直ぐと歩いてこようとしている。ただそれだけで、こんなにも光が満ちる。美しいものだけを詰め込んで丁寧に並べたら、きっとこんな風景になる。
 だから、と遠山は思う。ひどく静かな気持ちで、敬虔な祈りに似た響きで。あざやかな花びらの向こうで笑う三人がいる光景に、迷うことなく歩いて来る、薄紅に色づいた三人に。遠山は奥底に切望を秘めて思う。
 願わくは、願わくは。今ここで、この瞬間に、世界なんて終わってしまえばいいのに。